「言葉が意見を伝える道具であるならば、まず、意見を育てる必要がある」
この言葉が想像以上に自分の心に刺さっています。いくら文章術や語る技術を身に着けても語るための意見そのものがないといけない。
当たり前に思えつつ、忘れがちでグサッと刺さる言葉ですね。
「言葉にできる」は武器になる。
最近、この本を読み始めています。
2016年に出版されたベストセラー本で今も人気があります。去年の年末か、今年の年始にkindleのセールでめちゃくちゃ安くなった時に買いました。
しかし、いまだに読んでなく、積読状態でした。(kindleってセールで安く買えるから積読が増えちゃんですよね…)
ずっと読みたいと思っている本だけに、これはいけないということで最近やっと読み始めました。買ってから3か月。あまりにも遅すぎますね。
読み始めてみるとさすがベストセラー、面白いわけです。私自身、大学院で研究室したり、文章を書いたり発表するのでもっと早く読めばよかったと猛烈に公開しております。
まだ読み終わっていないのですが、読み途中ですでに感じることが多いのでこうしてブログにしています。全部読んでから書けよ、と突っ込みたくなる気持ちはわかりますし、自分でもそう思いますが、気にしないでください。
文章術よりも書くことそのものを見つめる
私が抱いているのは、世の中の風潮として、コミュニケーション・ツールとしての「外に向かう言葉」の比重が高まり過ぎている、という危惧である。
自分のことを言われている気がしてギクッとしました。
良い文章を書こうと思うと文章の書き方の本をたくさん読んでしまいがちではありませんか?少なくとも自分はその傾向があります。
例えば、感じることがあったときに、
~だと思う。
という文章があり、これをレベルアップしたいと思ったとします。この時に、つい注目するのが「だと思う」の部分。ここをかっこいい表現や分かりやすい表現にしようと思ってしまいます。例えば、こんな感じで。
- 私が考えるには~
- ~だと感じた
- 私の心の中で~とおいう思いが芽生えた
このように「だと思う」のレパートリーがどんどん増えていき、これが大事だと考えてしまいます。これって自分だけですかね?
しかし、この本の中ではこういった言葉の技術よりも、生まれてくる言葉そのものを育てることの重要性を指摘しています。先ほどの「~だと思う」という言葉でいうところの「~」そのものを磨き上げるということではないでしょうか?
言葉の重さを磨く
人間は、相手の言葉に宿る重さや軽さ、深さや浅さを通じて、その人の人間性そのものを無意識のうちに評価しているのである。
多くの人が言葉に対して抱えている課題は、「どんなに言葉を尽くしても、相手の心に響いている気がしない」「周囲を巻き込もうと声を出しても、空回りして、誰も動いてくれない」といった、理解はされるものの、納得や共感・共鳴にまで達しないといったものであろう。そのため、言葉そのものに致命的な問題があるわけではなく、むしろ、言葉の軽さや浅さにこそ、問題があるように思えてならない。
言葉遣いも重要ですが、それ以上に何を話すか(話せるか)。人の言葉の重みが決まる部分ってここですよね。当たり前なのですが、美しい言葉をかける人、話せる人が最近あまりにも多いもので、忘れがちになります。
本書の中にある「言葉の軽さや浅さ」がまさに自分が何かを書いたり、話したりするときに感じる課題でした。本書を読んで初めて「そうだ!」と自分の課題に納得できました。皆さんも自分が語る言葉に重みを付けたと思いませんか?
「言葉が意見を伝える道具であるならば、まず、意見を育てる必要がある」 この前提に立つと、言葉を生み出すプロセスには、①意見を育てる、②意見を言葉に変換する、という二段階が存在していることに気付く。
自分自身、意見を育てるという1段階目をおろそかにしている気がしました。
意見を育てるとはどういうことなのだろうか。そして、どのようにすれば意見を育てることができるようになるのだろうか。その重要な役割を担っているのが、前項で述べた「内なる言葉」である。人は、考えが浮かぶ時、言葉で疑問を持ち、言葉で考え、言葉で納得できる答えを導き出そうとしている。こうしたあらゆる「考える」という行為において、発されることのない内なる言葉を用いている。
内なる言葉は、確実に頭の中に存在している。そのため、内なる言葉を1つの言葉として認識することこそが重要なのだ。
「内なる言葉」をいかに育てるか?これが本書の大きなテーマの一つとなり、話が進められます。現在読んでいる最中なのでこの後は本を読んでください(てか早く読め)。
以上、ブログを書いている身としてはグサッと刺さるフレーズでした。